日本生化学会会員のみなさん、
今号では論文著者の責任について考えます。
近頃は、論文あたりの著者がひと昔前よりも多い傾向にあります。これは研究の完成に異分野間の共同研究が必要になったことや、解析対象となるデータの規模が大きくなったことが要因に挙げられますが、これとは別に“不適切な著者”の増加が指摘されています(「会長便り第5号」でも少し触れました)。ほぼすべてのジャーナルでは著者としての責任と義務を定めており、さらに各著者の貢献を具体的に論文原稿に記述すること(Contribution Statementなどとよばれます)が求められる場合もあります。私たちのJBでは、投稿時に「Authors’ Responsibility and Conflict of Interest Form」の提出が必要であり、すべての著者がその研究の企画、実施、あるいはデータの解析と解釈、ならびに論文原稿の作成に貢献したことを示す書類に署名することを求めています。“不適切な著者”とはこのような責任と義務を実際には果たしていない著者のことを表し、英文では“guest, honorary, or ghost authorship”のようによばれます。それでは、なぜ“不適切な著者”がいるのでしょうか。それは、その存在が“本来の著者”を益する場合があるためであろうと推測されます。たとえば、著名な研究者が共著者に名を連ねると論文原稿がジャーナルに採択されやすくなる、“本来の著者”が研究費獲得や人事(採用、昇進など)において“大物”の共著者に便宜をはかってもらえる、あるいは学生や部下が著者となる論文を作ることで指導者としての責任を果たせる、などといった動機があるのかもしれません。つまり、“本来の著者”が意図的に“不適切な著者”を作っていることになります。
一方、不適切とまではゆかなくても、先ほどとは別の理由で本来の責任と義務を果たしているとは言えない共著者がうまれることがあり、その多くは共同研究の実施に適切さを欠くために起こります(EMBO Rep. 15:914)。共同研究者の間では「知識・技術面の適切性(epistemic integrity)」と「倫理面の適切性(moral integrity)」の両方が満たされることを確認することが必要であるとされています。しかし、教育・研究面の上下関係の存在や専門分野の隔たりのために、実際にはこれが実行されていない例があるようです。このような場合には、一部の著者による研究不正があったとしても、他の著者がそれに気づかずに研究成果が公表されてしまう可能性があります。過去に話題にのぼった研究不正の多くでは、不正の実行に直接的には関わっていない共同研究者は責任を問われていません。これは、不正が特定個人により実行され、専門性の異なる他の共同研究者はそれに関わることができなかったとみなされるからです。つまり、不正への責任が及ばないことで、共同研究が適切に実施されなかったことが図らずも露呈しているのです。EMBO Rep.誌の記事では、共同研究者が導きだす成果が“何か変だ”とか“完全過ぎる”と感じられる場合にはより慎重にその信憑性を確認するべきだとする一方で、“自己の課題設定や作業仮説が証明されることの誘惑”がその確認を妨げる場合の多いことも指摘しています。
不適切かどうかにはかかわらず、著者が多くなる背景として著者数が論文の価値や本来の著者へのクレジットに影響しないことがあります(かつてProc. Natl. Acad. Sci. USA誌が論文あたりの著者数の上限を定めていた時期があるように記憶します)。著者数の大小は論文の内容の良し悪しに関係ないかもしれませんが、bibliometricsへの影響を指摘する声があります(EMBO Rep. 15:1104)。これは、著者の多い論文が引用されると多数の研究者のh index(「会長便り第2号」を参照ください)が上昇するために、著者の少ない論文との間に不公平が生じるというものです。この問題を解消するための方策として、ひとつの論文の被引用で生じるクレジットを一定にしてそれを著者間で按分することや、著者の貢献度に応じて按分比率を変えることも提案されています。
さらには、上記のような“不適切な著者”がいるくらいなら論文原稿の審査員を共著者に加える方がまし、とまで言う人もいます(EMBO Rep. 15:1106)。“真の著者だけがいる論文”にするためには、私たち自身が著者としての責任と義務を果たすように努めるしかありません。
2015年1月
中西義信