若手研究者に聞く-奨励賞受賞者からのコメント-
All We Need is “Biochemistry”岡山大学大学院医歯薬学総合研究科 生体機能化学分野
田中智之
深く考えずに行った選択が良い結果を招くことは幸運以外の何ものでもありませんが、京都大学薬学部で市川厚先生の主宰する衛生化学研究室(現在の薬学研究科生体情報制御学分野)に参加したことは、まさにそうした幸運でした。当時は、ヒスタミン合成酵素と、種々のプロスタグランジン受容体のcDNAクローニングが相次いで行われていた時期で、研究室には心地よい緊張感が満ちていました。初めのうちは夜になるとお役ご免で帰宅していたのですが、少しでも研究室に残っていたいような気持ちにさせる(実際は邪魔をしていたのですが)不思議な魅力がありました。週1回、全員が集合する研究報告会と文献紹介があったのですが、これは経験の程度により生じる垣根をできるだけ作らない、自由闊達なものでした。ひたすら厳しい研究報告会は後にたくさん見てきましたが、市川研では厳しい意見が出ようとも最後は常に建設的な提言で終わり、院生のやる気をそぐようなことは殆どなかったように記憶しています。そうした雰囲気の中、博士課程の先輩や、助教授、助手といったスタッフの方に、実験ノートを持って行ってはいろいろ相談したことは印象に残っています。当時はそうしたことは研究室では当たり前のことと考えていましたが、研究室を出て外を見ると必ずしもそうではないことを知りました。大学院生の皆様は強面のスタッフ、先輩に無理やりにでも突撃することで、新しい風を吹き込んでみてはいかがでしょうか。
市川研ではヒスタミン合成の調節機構について研究を進めてきましたが、そのうちヒスタミンを貯留している「マスト細胞」への関心が高まってきました。マスト細胞は全身の様々な組織に分布する免疫細胞で、免疫系、神経系、代謝系に由来する様々な刺激に応答し、多様なメディエーターを産生することが知られています。こうした細胞の性質を考慮すると、マスト細胞は生体内の優れたセンサーとしてはたらくことが予想されるのですが、従来の研究では即時型アレルギーや、寄生虫感染といった限られた範囲での機能が主に取り上げられてきました。日本生化学会奨励賞では、IgEとの関わりや分化に伴う変化についての研究を評価していただきました。今後の展開として、マスト細胞のあっと驚くような生理機能を見いだすことができないかと作戦を練っているところです。
この原稿を書いているさなか、行政刷新会議の仕分け作業が大変な熱気の中進んでいます。学術振興会特別研究員制度や、科研費の若手研究などが仕分け対象として俎上にあり、果たして将来はどうなるのだろうと不安を覚えている方もたくさんいらっしゃると思います(私もこうした制度に支えられた研究者として文科省に意見を送りました)。一方で、たくさんの優れた研究者や、本会を含む多数の学会、大学から数々の力強い反論、意見が提出され、研究活動の価値とは何かといった本質的な議論も起こっています。大変な危機であることは間違いありませんが、こうした議論のおかげで、私たちがどうして研究をするのかという大事なことを考える良い機会にもなっています。生化学では現象と物質との関係が重視されます。薬と身体という意味で私が所属する薬学ではもちろんのことなのですが、その他にも生命科学の幅広い分野において、生化学的なセンスはきらりと光るヒントを与えてくれます。「生化学」誌に掲載されるバラエティ豊かな研究成果を見ても、生化学の技術や志向が様々な領域に広がりを持つことが理解できます。タンパク質の時代、遺伝子の時代を経て、分析技術の発展と共に、再び生体内の様々な「物質」が注目を集めています。本欄をお読みになっている大学院生の皆様には、私のようにたまたま生化学の世界に足を踏み入れた方も多いと思うのですが、実は私たちは生命科学のこれからの発展に、「生化学」というコアの部分で貢献できるチャンスを持っているのです(そんな気持ちでタイトルを付けました)。
博士課程をはじめとした若い研究者へのメッセージと言うことで、些か僭越なことも述べました。日本生化学会会員の皆様には今後もご指導ご鞭撻を賜ることと存じますが、微力ながら生化学の発展に力を尽くしたいと考えております。宜しくお願い申し上げます。